公共性の喪失

「それぞれが自分のなかにひきこもり、ほかの者たちすべての運命に対して、他人であるかのように振舞う。彼にとっては自分の子供と良き友人たちだけが人類のすべてなのである。仲間の市民たち とは交わるかもしれないが彼らを見てはいない。彼らに触れるかもしれないが、彼らを感じてはいない。彼は自分自身の中にだけ、また自分自身のためだけ存在するのだ。もし、こうしたあり方で彼の気持ちに家族の意識が残っているとしても、社会の意識はもはや残っていないのである。」         

トクヴィル
 

 
 私の民主主義

●「自由な討論のあるところでは、意見の相違は流れ行く雲のように消えていく。そして以前より空は晴れ穏やかになる。」

●「社会の最終的な権力、その安全な保管場所としては、大衆以外に私は知らない。もし大衆が健全な判断力をもって自分達の力を行使できるほどに啓蒙されていないと思われるなら、その救済方法は大衆の判断力をとりあげてしまうことでなく、彼等の判断力を活かすことである。」

トーマス・ジェファーソン
 

 民度

どこの国の誰の事か忘れたが、国会議員に当選したその人が町を発つ時に、町の人々はその人にこんな言葉を贈った。「我々はあなたを、我が町から国に送る事を誇りに思う。私達はあなたの名でこの町に学校や橋や道路ができる事を決して望んではいない。また、そのような事を喜ばない。あなたは我が町の為に仕事をするのではない。国の仕事するために送ったのだ。」と。

 

 
 家のかたち
イメージして下さい。
道から玄関に至ります。隣家があり、門があり、塀が、庭の樹があって、家へのアプローチ空間を作ります。この空間は外部の壮大な空間の中にあって、それぞれの形、大きさ、スケールによって、ヒューマンスケールに秩序立て、物理的な箱としてのかたちを持たないが、家にとってはなくてはならないかたちになります。このかたちと建物の外観の連なりが、地域の風景となり、公的な場と私的な場の継ぎとなります。家のかた
ちはこの部分から始まっているといえます。 玄関の扉を開け、一歩室内に入りますと、床、壁、天井に支配 された内のかたちがあります。この内なるかたちは外の空間、即ち自然との係わりによって、その機能としての位置が決められます。
各機能を継げる長さ、高さ、広さ、素材、色彩、テクスチャー、そして自然の光、
風が、また夜になると照明が秩序立てて構成されることによって内部のかたちが表現されます。その表現の方法は実に多岐に考えられますが、土地の特性、建築法規、生活者の家族構成、ライフスタイル、予算といった物理的、精神的、歴史的な要素を含みながら、独自のかたちとして生まれます。このいろいろな要素を整理し秩序立てていく事が、家を作るという作業なのです。
我々建築家にとってはかたちへの試みであり、仕事の魅力なのだと思います。しかし、家というのはそれだけではないようです。かたちには物理的な表現だけでなく、物理的なかたちのなかで日々営まれる生活及び、過ぎゆく時間のなかで、住み手が何かを感じながら過ごす無形のかたちといったもの、例えば、体感、体験、雰囲気、らしさ、というものだろうか・・・、があると思います。
実は家にとって、また建築家が考えた物理的な箱としてのかたちにとって、この無形のかたちが家の本質ではないかと思います。光、風の入り方が日々変化するように、日々の生活のなかで変化していく生活者の精神に作用するものが家にとって重要であると思います。具体的に何であるかと言われると困ります。そうです、イメージしてください。自分達の生活を家に対する想いを、使い易い、温かい、寛げる、楽しい、素材が、色が浮かびます。ソファーの位置が、子供の生活が、ご夫婦の生活が来訪者の話し声が、食卓での会話が・・・。
そうなんです。イメージする事から、かたちが生まれるのです。自らがイメージし夢みる事から始まる創作の冒険が家作りであり、かたち作りなのです。建築家が作るのではないのです。自らが作るプロセスを経験し楽しむ事によってかたちは歴史を持った有形の箱となり、無形の箱となるのだと思います。家とはそうあってほしいと思っています。また建築家にとってその家がその家族らしく染まっていく時間の流れが何よりも嬉しいのです。
 黒木 実
 

 

■空間も景観も社会が共有するものだという初歩的な感覚・・・・・
■都市は美しくあらねばならない。美しさとは秩序以外にない。
 人の心はあらあらしさに堪え難く、秩序の中で安らぐ。

司馬遼太郎
 

 
 

「建築は認識された意図に基づく行為であります。建築する、それは秩序づけること。    何を秩序づけるかというと、機能と物質。
空間に建造物と道路とを配すること。                          人間を保護する容器を造り、そしてそこへ到達するに便利な連結を作ること。
処理の巧みさよりエスプリに作用し、眼に訴えるフォルムと、歩行に課せられる距離とによって感覚に作用すること。                                 鋭敏で、決して逃れることのできない知覚をうまく使って感動させること。         空間、距離とフォルム、内部空間と内部フォルム、内部動線と外部フォルム、そして外部空間‐質量、重量、距離、雰囲気、これらを以って我々は設計するのです。」

ル・コルビュジエ
 


世田谷区都市計画審議会審議委員の公募に黒木が提出した作文です。

「都市は美しくあらねばならない、美しさとは秩序以外にない。人の心はあらあらしさに堪えがたく秩序のなかで安らぐ。」この言葉は、文化勲章作家司馬遼太郎さんが「日本人と土地」という随筆集で書かれていたと記憶する。戦後の焼け野原から、目覚しい経済発展を成し遂げてきた日本であったが、都市は何度かの経済的な大きな波や、法改正によって今日の姿になった。都市に住む人々にとって、この秩序を失いかけた都市の姿は、安全、安心のもとで、心落ち着けて生活を楽しむ世界になっているかと考えると、首を傾げる人が多いのが現状ではないだろうか。住宅地では土地がどんどん細分化され、細分化されない大きな土地は大規模な開発が行われ、数十年掛けて作り上げて来た、少なくても地域にとっては秩序性を持った良好な町並みが壊されて来ているのが現実である。「都市は美しくあらねばならない」という司馬さんの言葉は私権や便利という壁によって「美しい」という言葉を共有化できる議論がなされないまま、法の許す範囲で各自が自由に建築をしてきてしまった結果が今日の姿になってしまったと考える。都市、若しくは町並みという人々が共有する空間は私権を越えたところで考え、計画されるべき世界ではないかと私は思う。では、今日の状況をいかにして打破していかねばならないのだろうか。都市を構成する個(建築・私)と全体(都市・公)を繋げる良好なコードをいかにして見つけるかという事がこれからの都市政策の課題である。そのコードは税や環境、経済、産業、教育、福祉などといった、大きな視点からのアプローチの方法と自治会や町内会といった、生活に身近な部分のコミュニティーを活用した草の根運動的な視点の中から生まれてくるコードがあるのではないだろうか。大きな視点、身近な小さな視点それぞれの長所短所を議論し、短中長期的な目標を掲げて、相互に連関し合える良い状況が生まれるような仕組み作りをしていく必要があるだろう。今までのように法や行政の力だけに頼るのではなく、住民一人一人が、個と全体の有り様が自分達の生活、しいては財産の価値を高めるという意識を持ち、その有り様が自らが参加し努力することで人間味をもった美しい都市が生まれるという希望を持って行動に移したい。

黒木 実
 
 

世田谷区本庁舎等整備審議会審議委員の公募に黒木が提出した作文です。

「歴史の記憶は人々の体内に宿る」

穏やかな秋の好日、多くの人々が先祖のお墓の前で手を合わせる。子供たちの明るい声が、苑内に響き、のんびりと赤トンボが空中を遊泳している。人は延々と辿ってきた歴史の内に、 家族や民族の記憶を想いだし、未来への希望の糧の一粒としている。歴史の記憶は、身体を形成する60兆個の細胞に遺伝子としてコピーされ、秩序立てられていく。このコピー作業が人が人である為の無言の言葉となって継続される。優れた先人達の残したその時代の精神や技術はその時代を覆っていた空気を内包して、現存する形あるものは後世に語りかけてくる。それは今という時代を生きる我々に、貴重な有形の資産として何ものにも代え難い財産として引き継がれ、形あるものは空間を作り、街並みを形成し地域の風景と成り、人々が安心して過ごせる時間的重さを持った心の拠り所となる。勝手、お寺や神社がその役目を担ってきたように、戦後日本の復興の足跡を残す近代建築は歳月の流れの中で人々に、戦後日本の発展や人々の叡智や弛みない努力を、街の歴史の記憶として体内遺伝子にコピーしてきた。人は歴史の記憶の大切さを知っているが故に、先祖のお墓の前で手を合わせ、今の自分と未来の子供達へ夢や、安寧を託すのである。司馬遼太郎の言葉に「都市は美しくあらねばならない、美しさとは秩序以外にない。人はあらあらしさに堪えがたく秩序のなかで安らぐ。」と語っている。秩序とは長い年月かけて作られてきた、慣れ親しんだ空間の内に宿る自然に近い状態であるが故に安らぐ。作られ、壊される歴史は人々から安らぎと空間を奪う。その事を人々が考えその価値を自らの安らぎの証として持ち得た時に、社会は歴史の中に健全な確かな成長を感じるのである。

黒木 実
 

INAX REPORT/189に黒木が師匠の東考光氏に宛てたコラムです。

「40年前に得た財産」

1960年代後半から1970年代は建築家を志す者にとって幸せな時代であった。東京オリンピック、大阪万博を経て、高度成長が数年続いた。建築界も多分にその恩恵を受け、建築家の仕事がメディアに度々紹介され、アトリエ派のスター建築家が多く登場した。その一人が東さんであった。学生時代の友人に教えられて、表参道と明治通りの交差点の角にあったセントラルアパート7階の東さんの事務所を訪ねたとき、東さんは万博の仕事が終り、たしかヨーロッパに旅行に行かれていて留守だった。その時、応対してくれたのが、4年前に亡くなられた村田靖夫さんだった。運良くアルバイトで暫く置いていただける事になり、丁稚奉公が始まった。その後、東さんが帰国され始めて事務所でお会いしたとき、一言二言声を掛けていただいたが、内容と、正式な所員として採用された経緯の記憶は、少々悔やまれるが40数年前のことなので鮮明には覚えていない。当時、事務所には村田さん、秋山さん、井上さんが在籍されていた。すぐに村田さんの下で粟辻邸の図面をお手伝いした。都市住宅誌で塔の家、赤塚邸、大阪探検基地、ホワイトマジックボックス、大山邸、さつき保育園、配島工房など多くの作品が紹介されていた。私にとっては考えの及ばない作品群であり、それらの考えを生み出す東さんの空気に触れ、設計にいたる考え方を学ぶべく事務所の空気を必死に嗅ぎ取っていた。

7日間のユリシーズ(都市住宅誌6807号)」、「共同作業論(都市住宅誌6908号)」は建築家の日常行動、考え方を示した読み物として私の教科書になった。西宮のパチンコ店の設計依頼がきたときは、「黒木くんパチンコに行きましょう」と誘われ、びっくりした事を覚えている。パチンコ屋の空間を肌で感じその感じたイメージを設計に反映させる、答えはひとつではなく感じたイメージをどのように設計の中で表現するか、その解を探し、表現する事が大切なのだよと教えていただいた気がした。

いまでもこのときの印象は強く残っている。東さんは決してこうしなければいけないという設計の縛りは持っておられなくて、スタッフに自由に設計をさせてくれていたというのが私の印象である。後に「複合的なるものへ」と題した文章を退職して数年経って読んだとき「パチンコに行きましょう」と誘われた東さんの意図が私の中でより明確な印象への答えとなった。「完全に計算されたものは、その計算通りにしか伝わる事がない。計算はよいが、表現は一歩手前で留めることによって、それを使う人、見る人、感じる人の自由に構築し得る世界、それが私の建築感の基本でもあるのだ。」と書かれている。論理から出発するのでなく、考える原点は常に自由であれ、自由の中で自らの感じる空間を探し出せ、それは施主の一言がヒントになるかもしれない、パチンコ屋で隣に座った人の一言が空間を決めるヒントになるかもしれない。論理による整合性を積み重ねた作品を追い求めるのではなく、自由に発想し、自由に表現し、感じることで新たな発見が空間の中に生れるのだよと教えていただいたような気がする。

記憶に残っている幾つかの東さんの日常から教えられた部分に触れてみたい。東さんは大阪のご出身なので、大阪での仕事も多く、わたしが入所して3年目ごろに大阪に事務所を開所したので、東さんとご一緒して飛行機や新幹線で大阪に行くことが度々であった。ご一緒に行く時は塔の家で奥様がご用意していただいた朝ごはんをご馳走になった。大阪での定宿は阪急ホテルで、仕事が終わると新地のクラブに連れて行っていただいた。薄給の身では味わえない楽しい体験であった。こんなエピソードがある。東さんと井上さんが西宮で施主と打ち合わせをして遅くなり、定宿に予約を取ってなかったので泊まるところがなく、男二人でラブホテルに泊まった話。円形ベットに天井は鏡張り。こんな事も東さんは平気。井上さんから聞いたときびっくりしたのと、東さんの豪胆さと気楽さ、こだわりのなさを感じた。その象徴的なのが、「都市住宅誌・ARCHITEXT EXTRA号」での東さんの側面全身ヌードをシルエット化した衝撃的なポスターではないだろうか。また、こんな事も有った、半徹で事務所の机の下で寝袋に包まって寝ていると、なにやら朝早く音がするので目を覚ますと、東さんがトイレ掃除をしている。なんと声を掛けて良いか分からず困った事がある。設計からは学べない東さんの人としての本質の一端を知りえたのかもしれない。

その顕著な表れとして、雑誌「建築・19726月号」で「在庫品目録・東孝光建築研究所+結城茂雄」の特集記事。当時のスタッフが興味の有ることを文章として発表した。そこには建築雑誌にこんな事(動く箱の発見、潜水艦、戦車学・序、私の空想科学小説入門、純血競走馬私見、拳銃考、特製ポタージュ調理法、コモリガエル・カモノハシ-異常論、存在証明)を掲載して良いのだろうかという企画でびっくりした事を覚えている。この企画の成り立ちを理解できる文章が結城茂雄氏の文章「実物の世界」、東さんが書かれた最後の項目「存在証明」、の中のこんな下りを読んで難解で有るが納得した。「〈もの〉の存在に理由が有るとは信じられないのと同様、なぜ好きなものが好きなのかには、たいした理由は無いと、私は信じている。そこで、中略・・・好きなもの魅せられるものについての分析は、私の場合余計な事であり不必要な事である。それが何故好きなのか、なぜひきつけられるのかを考え始めた瞬間から、幻影が崩れはじめるのだ。」

私はこの企画を通して設計という作業はただ機能を追い求めて線を引くのではない、線の先に見える空間を自ら感じ、責任を持ち存在させる作業に行き着くことの楽しさ、その世界には全てが自らの考えが及ぶ全てが表現されている、日常の過ごし方、興味の対象が一本の線にいかされれば良い、理由は要らない。精神の発露であれば良いのだと私なりに理解した。その後「建築文化219742月号」で「個から全体へ━ぼくたちの都市的スペース・そのデザイン的検証」の特集記事の担当を仰せつかり、その時期までに完成した作品の模型をつくり、個の建物と都市とのかかわり、個と個の複合化のかかわりから生れる都市的スペースを模型を使って写真を撮り掲載した。この作業を担当したことが、今日の私の設計思想の根本を成している。
思うに、東さんから私は設計という表現手段を通じて、建築の技術や考え方を教えていただいた以上に東さんとご一緒した日常の全てから、形而上的な教えを受け、7年間のアトリエでの丁稚奉公を終えたのではないかと思う。師であると共に、何も知らない若者が少しずつ知識と智恵を付けていけるようにたくさんの機会を父親が子供を見守るように与えてくれた、私にとっての「7年間のユリシーズ」であったと思っている。深謝している。

黒木 実
 
 

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